第1話:オールジャパンオールスター300kmレース
2007/10/20
カテゴリ: GroupAの残像
ライター: 御堀直嗣
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1990年3月17日~18日 第1戦 西日本サーキット 「オールジャパンオールスター300kmレース」

50勝というとてつもない記録を持つ初代GT-R
その神格化された歴史を
16年の時を超えて継承したR32型GT-R
万が一にも負けは許されない
いま、29連勝へのローリングスタートが始まった
決して楽勝ではなかったR32型のデビューレース
ブルーのカルソニックカラーに彩られたスカイラインGT-Rが、先頭を気ってチェッカーフラッグを受けた。クールダウンを終え、グランドスタンド前に戻って来たカルソニックスカイラインに、エースドライバーの星野一義が駆け寄り、マシンから降りたった鈴木利男を迎えた。そこに、花束が贈られる。R32型スカイラインGT-Rの連勝記録が、ここから始まるのである。
1963年の第1回日本グランプリに惨敗したプリンス自動車は、その雪辱を果たすため新型スカイラインS50型を開発。さらに、搭載されていた1500ccのG1型直列4気筒エンジンに替え、グロリアに搭載されていた、SOHC2000ccのG7型直列6気筒エンジンを搭載したスカイライン2000GT、S54型を第2回日本グランプリのGTレースに投入したのであった。
翌1964年に行われた第2回日本グランプリでは、1600cc以下のツーリングカーレースで、スカイライン1500はべレットやコロナ、コルティナ・ロータスを相手に圧勝する。さらに、2000cc以下のレースでは、グロリアがクラウンやベレル、セドリックを相手に1-2フィニッシュを飾ったのであった。そしてGTレースでは、ポルシェ904を相手に、スカイライン2000GTが一時はトップに立つ大立ち回りを演じ、2位に入賞したのである。
この大勝利に酔う暇もなく、3代目のスカイラインC10型の開発が1964年に始まった。その新型スカイライン2000GTが発売されたのは1968年10月。この間に、プリンス自動車は、業界第2位の日産自動車に吸収合併されることになった。1966年8月のことである。その結果、3代目のスカイライン2000GTには日産のL20型エンジンが搭載されることになったが、S54型スカイラインの高性能モデルGTBの後継として位置づけられたGT-Rには、プリンスR380で培われたGR8型エンジンをディチューンしたS20型が搭載されることになったのである。初代スカイラインGT-Rは、1969年2月に発売された。
スカイラインGT-Rのレースデビューは、発売からわずか3ヶ月後の1969年5月に開催されたJAFグランプリである。このレースでは、コロナをベースとしたトヨタ1600GTとの闘いとなった。最終ラップまでもつれ込んだ攻防に勝ったのはトヨタ1600GTだった。が、トヨタ1600GTは走路妨害の反則をとられ失格となる。こうしてスカイラインGT-Rは、デビュー戦で勝利を手にした。
スカイラインGT-Rのデビューレースは、快勝というわけにはいかなかったが、ここから50勝への記録が始まる。そして、1973年の富士GCレースのサポートレースで、スカイラインGT-Rは50勝目を記録。その間、1970年10月にはハードトップのGT-Rが登場している。
スカイラインGTとGT-Rの伝統は、このようにして築かれてきた。それから16年の歳月を経て、1989年8月に8代目スカイライン、R32型にGT-Rが復活するのである。デビューレースでは、何がなんでも優勝しなければならない。そんなプレッシャーの下で、1990年のグループA第1戦が、3月18日の西日本サーキットで開催された。
R32型スカイラインGT-RのグループA仕様の開発は、着々と行われた。そして、1989年のシーズンオフ、その年のインターTECが終わると、さっそくホシノレーシングとハセミモータースポーツのメカニックらが、ニスモに通い詰め、本番車両の製作に取り掛かったのであった。それぞれのチームにニスモの技術者と、エンジンを担当する日産工機の技術者が付き、メカニックたちはその指導を受けながらマシンを作り上げていく。
一応の完成を見ると、さっそくテスト走行を行う。本格的なレースセッティングはサーキットで行うことになるが、慣らし運転や、ブレーキパッドの焼き入れなど、全開走行を行う前の点検を兼ねた走行テストは、ニスモの本拠地、追浜のテストコースで実施した。そのため、サーキットでのテストは最初から全開走行を行うことができ、テストメニューをきっちり消化できたのである。これが日産ワークスの仕事である。
そうはいっても、3月18日の開幕戦は、あっという間に迫った。R32型スカイラインGT-Rには、アテーサE-TSと呼ばれるトルクスプリット4WDが採用されている。これは、基本的にはFRとして駆動力が伝えられるが、走行状況次第ではフロントタイヤにも駆動力が伝えられるという、電子制御を駆使した4WDだ。
前後タイヤへのトルク配分は、開幕戦を迎えるまでの周到なテストによってプログラムが決定された。当初は、市販量産車のGT-Rと同じようにFRを主体としたトルク配分の制御を行っていたが、最終的には、コーナーへのターンインでフロントタイヤへのトルク配分をカットし、コーナーからの立ち上がり加速時には前後50対50のトルク配分がなされる制御となった。加速時のトラクションの半分は、フロントタイヤの引っ張りで賄うという考えだ。
グループA仕様のスカイラインGT-Rには、センターコンソールにトルク配分を変えるためのダイヤルスイッチがあるが、よほどのことがない限り基本設定のままで4年間のグループAレースを闘った。
国産のレーシングカーとしては初の試みとなった4WDの採用であったが、1988年の秋から続けられた研究開発により、1990年のデビューレースまでには完成の域に達していた。そのため、サーキットで行われるセッティング作業は、容易に進められた。すなわち、操縦性を変えようとした際、前後のトルク配分を変更するだけでそれはできてしまう。
一方、サスペンションのスプリングやダンパーの仕様を変えることでも操縦性は変わる。したがって、もしデビューレース間際まで4WDの制御内容を固めることができずにいたら、どちらで調整を行うべきか混乱が生じた可能性があったのである。
とりたて大きな問題もなくセッティングをすませた2台のスカイラインGT-Rは、西日本サーキットを縦横無尽に走り、それまでのコースレコードを簡単に塗り替えたのであった。
西日本サーキットは、現在はMINEサーキットに衣替えしており、コースレイアウトも異なる。西日本サーキット時代のコースは、世界的にも珍しい反時計回りのレイアウトであった。
土曜日に行われた予選では、事前の予想通り2台のスカイラインGT-Rによるポールポジション争いが展開された。そして、前年に星野一義自身がスカイラインGTS-Rで築いたコースレコードを2秒近くちじめる1分12秒093で、カルソニックスカイラインがポールポジションを獲得したのである。2番手には、長谷見昌弘のリーボックスカイライン。
タイムは1分12秒713。
2台のスカイラインGT-Rに次ぐタイムを出したのは、土屋圭市の駆るフォード・シエラRS500である。しかし、タイムは1分13秒868が精いっぱいであった。カルソニックとの差は2秒近くあり、決勝を前にして早くもGT-R以外のチームが取れる作戦は、GT-Rのリタイヤ待ちしかなかったのである。
圧倒的な速さを見せるスカイラインGT-Rではあったが、当のホシノレーシングやハセミモータースポーツ、そしてニスモにしてみれば、何が起きても負けるわけにはいかないというプレッシャーに圧倒されそうになっていた。十分なテストを重ね、やれることはすべてやった。しかし、レースに100%はない。天候の変化、路面状況の変化、競り合い、周回遅れの処理・・・・・・思わぬ接触など、何かが起きる可能性はいくらでもある。1960年代半ばから積み上げられてきたスカイラインの重い伝統が、チーム全員を飲み込んでいた。
ローリングスタートでいよいよレースが始まった。ポールポジションからカルソニックが先頭に立つ。それにリーボックが続く。やはりGT-R以外のマシンは歯が立たない。そして、リーボックでさえカルソニックに離されていく。星野の乗るカルソニックの独壇場となった。
107周、300kmで争われるレースの4分の1が終了した時点で、カルソニックは3位以下のマシンを周回遅れにした。リーボックもやがて3位以下を周回遅れにする。
だが、最初のハプニングが起きたのは、レース半ばにカルソニックがピットインしたときであった。星野が黄旗追い越しをしたとして、10秒のピットストップを命ずるペナルティが課せられたのである。しかし、これは遅いマシンのドライバーが手を挙げて抜くように合図したためという星野の訴えが認められ、撤回。
いよいよレースも終わりに近づいたとき、リーボックがスロー走行となり、カルソニックに周回遅れにされてしまう。トランスミッションのギヤが4速しか使えなくなったためだ。「あともう1周あったらリタイヤだっただろう」と、リーボックのセカンド・ドライバーであるA・オルフソンはレース後に語った。
トランスミッションのトラブルは、カルソニックをも襲った。しかし、それが軽症であったため、事なきを得た。原因は5速ギヤの欠損だ。それにより5速がまず使えなくなり、やがてその欠落した部分がトランスミッション内部を動き回り、最悪の場合はリーボックのように、ほとんどのギヤが使えなくなる。
じつは薄氷を踏む思いでデビューレースを終えた新スカイラインGT-Rであったが、結局カルソニックは全出場マシンを周回遅れにして優勝したのであった。内情はともかく、無事にデビュー戦を勝利で飾ったスカイラインGT-Rは、この後、連勝街道を驀進していくのである。
RESULT
1990・第1戦
オールジャパンオールスター300kmレース
3月18日(予選17日) 西日本サーキット 主催:西日本サーキット/VICIC 格式:国内 天候:曇り 観客:41000人
2.8155km×107周=301.2585km 出走:25台 完走:20台 スタート:13時01分

50勝というとてつもない記録を持つ初代GT-R
その神格化された歴史を
16年の時を超えて継承したR32型GT-R
万が一にも負けは許されない
いま、29連勝へのローリングスタートが始まった
Text: Naotsugu Mihori
Photo: Iwao Komiya
By courtesy of GT-R Magazine Vol.000, Kotsu-Times Sha, 1994.
Photo: Iwao Komiya
By courtesy of GT-R Magazine Vol.000, Kotsu-Times Sha, 1994.
決して楽勝ではなかったR32型のデビューレース
ブルーのカルソニックカラーに彩られたスカイラインGT-Rが、先頭を気ってチェッカーフラッグを受けた。クールダウンを終え、グランドスタンド前に戻って来たカルソニックスカイラインに、エースドライバーの星野一義が駆け寄り、マシンから降りたった鈴木利男を迎えた。そこに、花束が贈られる。R32型スカイラインGT-Rの連勝記録が、ここから始まるのである。

翌1964年に行われた第2回日本グランプリでは、1600cc以下のツーリングカーレースで、スカイライン1500はべレットやコロナ、コルティナ・ロータスを相手に圧勝する。さらに、2000cc以下のレースでは、グロリアがクラウンやベレル、セドリックを相手に1-2フィニッシュを飾ったのであった。そしてGTレースでは、ポルシェ904を相手に、スカイライン2000GTが一時はトップに立つ大立ち回りを演じ、2位に入賞したのである。

スカイラインGT-Rのレースデビューは、発売からわずか3ヶ月後の1969年5月に開催されたJAFグランプリである。このレースでは、コロナをベースとしたトヨタ1600GTとの闘いとなった。最終ラップまでもつれ込んだ攻防に勝ったのはトヨタ1600GTだった。が、トヨタ1600GTは走路妨害の反則をとられ失格となる。こうしてスカイラインGT-Rは、デビュー戦で勝利を手にした。
スカイラインGT-Rのデビューレースは、快勝というわけにはいかなかったが、ここから50勝への記録が始まる。そして、1973年の富士GCレースのサポートレースで、スカイラインGT-Rは50勝目を記録。その間、1970年10月にはハードトップのGT-Rが登場している。
スカイラインGTとGT-Rの伝統は、このようにして築かれてきた。それから16年の歳月を経て、1989年8月に8代目スカイライン、R32型にGT-Rが復活するのである。デビューレースでは、何がなんでも優勝しなければならない。そんなプレッシャーの下で、1990年のグループA第1戦が、3月18日の西日本サーキットで開催された。

一応の完成を見ると、さっそくテスト走行を行う。本格的なレースセッティングはサーキットで行うことになるが、慣らし運転や、ブレーキパッドの焼き入れなど、全開走行を行う前の点検を兼ねた走行テストは、ニスモの本拠地、追浜のテストコースで実施した。そのため、サーキットでのテストは最初から全開走行を行うことができ、テストメニューをきっちり消化できたのである。これが日産ワークスの仕事である。
そうはいっても、3月18日の開幕戦は、あっという間に迫った。R32型スカイラインGT-Rには、アテーサE-TSと呼ばれるトルクスプリット4WDが採用されている。これは、基本的にはFRとして駆動力が伝えられるが、走行状況次第ではフロントタイヤにも駆動力が伝えられるという、電子制御を駆使した4WDだ。

グループA仕様のスカイラインGT-Rには、センターコンソールにトルク配分を変えるためのダイヤルスイッチがあるが、よほどのことがない限り基本設定のままで4年間のグループAレースを闘った。
国産のレーシングカーとしては初の試みとなった4WDの採用であったが、1988年の秋から続けられた研究開発により、1990年のデビューレースまでには完成の域に達していた。そのため、サーキットで行われるセッティング作業は、容易に進められた。すなわち、操縦性を変えようとした際、前後のトルク配分を変更するだけでそれはできてしまう。
一方、サスペンションのスプリングやダンパーの仕様を変えることでも操縦性は変わる。したがって、もしデビューレース間際まで4WDの制御内容を固めることができずにいたら、どちらで調整を行うべきか混乱が生じた可能性があったのである。
とりたて大きな問題もなくセッティングをすませた2台のスカイラインGT-Rは、西日本サーキットを縦横無尽に走り、それまでのコースレコードを簡単に塗り替えたのであった。
西日本サーキットは、現在はMINEサーキットに衣替えしており、コースレイアウトも異なる。西日本サーキット時代のコースは、世界的にも珍しい反時計回りのレイアウトであった。

タイムは1分12秒713。
2台のスカイラインGT-Rに次ぐタイムを出したのは、土屋圭市の駆るフォード・シエラRS500である。しかし、タイムは1分13秒868が精いっぱいであった。カルソニックとの差は2秒近くあり、決勝を前にして早くもGT-R以外のチームが取れる作戦は、GT-Rのリタイヤ待ちしかなかったのである。
圧倒的な速さを見せるスカイラインGT-Rではあったが、当のホシノレーシングやハセミモータースポーツ、そしてニスモにしてみれば、何が起きても負けるわけにはいかないというプレッシャーに圧倒されそうになっていた。十分なテストを重ね、やれることはすべてやった。しかし、レースに100%はない。天候の変化、路面状況の変化、競り合い、周回遅れの処理・・・・・・思わぬ接触など、何かが起きる可能性はいくらでもある。1960年代半ばから積み上げられてきたスカイラインの重い伝統が、チーム全員を飲み込んでいた。
ローリングスタートでいよいよレースが始まった。ポールポジションからカルソニックが先頭に立つ。それにリーボックが続く。やはりGT-R以外のマシンは歯が立たない。そして、リーボックでさえカルソニックに離されていく。星野の乗るカルソニックの独壇場となった。
107周、300kmで争われるレースの4分の1が終了した時点で、カルソニックは3位以下のマシンを周回遅れにした。リーボックもやがて3位以下を周回遅れにする。
だが、最初のハプニングが起きたのは、レース半ばにカルソニックがピットインしたときであった。星野が黄旗追い越しをしたとして、10秒のピットストップを命ずるペナルティが課せられたのである。しかし、これは遅いマシンのドライバーが手を挙げて抜くように合図したためという星野の訴えが認められ、撤回。

トランスミッションのトラブルは、カルソニックをも襲った。しかし、それが軽症であったため、事なきを得た。原因は5速ギヤの欠損だ。それにより5速がまず使えなくなり、やがてその欠落した部分がトランスミッション内部を動き回り、最悪の場合はリーボックのように、ほとんどのギヤが使えなくなる。
じつは薄氷を踏む思いでデビューレースを終えた新スカイラインGT-Rであったが、結局カルソニックは全出場マシンを周回遅れにして優勝したのであった。内情はともかく、無事にデビュー戦を勝利で飾ったスカイラインGT-Rは、この後、連勝街道を驀進していくのである。

1990・第1戦
オールジャパンオールスター300kmレース
3月18日(予選17日) 西日本サーキット 主催:西日本サーキット/VICIC 格式:国内 天候:曇り 観客:41000人
2.8155km×107周=301.2585km 出走:25台 完走:20台 スタート:13時01分
| Pos. | No. | Drivers | Car | Chassies | Engine | Tire | Laps | Time | Qualify/Time | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 12 | D1(1) | 鈴木利男/星野一義 | カルソニックスカイライン | BNR32 | ニッサン | BS | 107 | 2'16'36"368 | 1:1'12"093(B) |
