NISMO レーシングヒストリー

【The First Decade : 1984年~1993年】
■ニスモ誕生
1984年9月、東京・大森にニスモは誕生しました。日産の100%子会社であるニスモは、それまでモータースポーツ競技ユーザーのためのスポーツキット販売やユーザーサポートの窓口として存在していた日産宣伝第3課大森分室の設備・建物を活用し、その業務を引き継いで営業を開始しました。また、日産追浜工場内にあった特殊自動車実験課が行っていたレース車両開発業務もニスモが継承しました。初代の代表取締役社長には、日産の実験部門で長くモータースポーツ関連業務を行ってきた難波靖治が就任。難波は、1958年に日産が初めてモービルガストライアル(「豪州ラリー」)に出場し、初出場ながらクラス優勝を遂げた時のドライバーで、その後は実験チームを率いて国内ツーリングカーレースや海外ラリーへ積極的に進出していきます。日産グループのモータースポーツ専門会社の経営を任されたのも、その経験を買われてのことでした。

■モータースポーツ参加活動と車両開発業務
ニスモは、設立二年目の1985年からモータースポーツへの参戦を開始しました。日産グループのブランド力向上を目的に参加を開始したカテゴリーは、グループC車両による全日本耐久レース選手権への出場、グループA車両によるツーリングカーレースのふたつでした。グループA車両はR30スカイラインRSターボで、グループCカーは、アメリカのエレクトラモーティブ社と提携して開発したレース用V6ターボエンジンを英国マーチ社製のシャシーに搭載したものでした。グループAはのちのR32 スカイラインGT-R全盛時代へと繋がる流れの基礎を築き、グループCカーは10月に富士スピードウェイで行われたWEC世界耐久選手権で星野一義/萩原光/松本恵二が駆るマーチ85Gニッサンが総合優勝し、翌年度からのル・マン24時間レース出場のきっかけを作りました。以後、ニスモは日本のモータースポーツで隆盛を極めたグループAレースおよびグループCレースを中心に日産ワークスとして活動を続けていくことになります。また、ユーザー支援の立場で全日本ラリー選手権およびビッグレースのサポートレースとして開催されていたジャパンスーパースポーツセダンレース(JSS)、全日本フォーミュラ3選手権に出場しているチームやマシンの技術支援などを行っています。そして、K10マーチによるワンメイクレースの企画・運営もこの年にスタートしました。

■グループCカーとル・マン24時間レースへの出場(1985年~1990年)
6kmのストレートを含む全長13.6kmのフランス・サルテサーキットで行われるル・マン24時間レースは、ハイスピードのうえ、コースの2/3が公道のため独自の事前テストを実施することができないなどの条件が加わり、世界で最も過酷なレースのひとつとして知られています。1985年の
WEC in JAPANで優勝を遂げたニスモは、1986年からこのル・マン24時間レースへの参戦を開始しました。この年は初チャレンジにも関わらず、長谷見昌弘、和田孝夫、ジェームス・ウィーバー組のニッサンR85Vアマダが総合16位で完走し、その後、挑戦体制はより本格化していきます。1987年には、新開発のV8ターボエンジンを投入し、1988年にはプライベート参戦の2台を含めた4台体制へと発展。翌1989年には新設計のVRH35エンジンを搭載した3台のR89Cを投入するも、予選での好タイムとは裏腹に決勝では3台ともリタイヤ。その雪辱を晴らすべく1990年は、日欧米の日産3拠点から合計5台のワークスカーをエントリーさせ、必勝体制を築きました。予選ではポールポジションを獲得し、決勝レース前半では欧米チームのマシンが交互にトップを走るなど大いに期待されましたが、この2台はトラブルによってリタイヤ。日本人組のニッサンR90CPが日本車史上初の総合5位に入賞し、現地からのテレビ中継を見ていた日本のモータースポーツファンを湧かせました。しかし、翌年から車両レギュレーションが変更されることとなり、日産・ニスモのル・マンチャレンジは、その後しばらくの間見合わせられることとなりました。

■スカイラインGT-Rが無敵の連勝記録を作ったグループAレース(1985年~1993年)
量産車両によるグループAレースが、1985年に全日本ツーリングカー選手権としてスタートしました。ニスモは、初年度からR30スカイラインを投入。早くも1986年にスカイラインに乗る鈴木亜久里がチャンピオンとなりました。翌1987年にはRB20エンジンを搭載するR31スカイラインGTS-Rがデビュー。富士で行われるインターTEC国際レースが注目されたこともあり、国内各メーカーがこのカテゴリーに力を入れ始めます。1989年にはR31スカイラインを駆る星野一義が6戦中4戦でポールポジョンを獲得し、3勝を挙げた長谷見昌弘がシリーズチャンピオンに輝きました。そして、1990年。満を持してR32スカイラインGT-Rがデビュー。開幕から全6戦ポールポジション、全勝の完全制覇を成し遂げ、5勝を挙げたカルソニックスカイラインの星野一義がチャンピオンを獲得しますが、この初年は序章に過ぎませんでした。翌1991年はリーボックスカイラインの長谷見がチャンピオン、1992年も長谷見が連覇し、1993年はカルソニックスカイラインの影山正彦がシリーズ優勝。RB26DETT型直6ツインターボエンジン、フルタイム4WDのスーパーマシン、R32 GT-Rは、デビューからグループAによる選手権が終了するまで29戦全勝を記録。スカイラインGT-Rに新たな伝説を生み出したのです。まさに、第一世代のスカイラインGT-Rが1969年~72年に打ち立てた国内ツーリングカー50勝の記録を彷彿とさせる無敵ぶりでした。

■1988年WRCアイボリーコーストでニッサン200SXグループAが総合優勝
かつてサファリラリーで日産車が活躍したことから、「ラリーの日産」と呼ばれていたこともありました。このスピリットをニスモが継承。ラリー専用のFJ24型エンジンを搭載したグループBマシン「ニッサン240RS」が、1985年のWRCランキングで4位になりました。WRCの主カテゴリーがグループAとなった1987年と1988年は、ニッサン200SXでWRCに参戦し、1988年のWRCサファリラリーで総合2位に。同年のアイボリーコーストラリーでは総合優勝を果たしています。WRC史上FR車が優勝したのはこのラリーが最後となり、以後はハイパワー4WD時代を迎えます。同年をもってニスモのWRCチャレンジは一時休止しますが、N14型パルサーGTI-Rの登場とともに再始動し、1992年シーズンにWRCにカムバックします。この年のスウェディッシュラリーで総合3
位を獲得し注目されましたが、以後は目覚ましい成績を残すことができず、残念ながらWRCからの撤退を発表することになりました。

■1991年スパ・フランコルシャン24時間レース総合優勝
1988年、ニスモは初の海外拠点「ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ」を英国ミルトンキーンズに開設し、ツーリングカーレースやル・マン出場の前線基地としての活動をスタートさせました。早くも同年のヨーロッパツーリングカー選手権スパ・フランコルシャン24時間レースにR31スカイラインGTS-Rで初出場し、総合6位に入賞しました。1989年にR32スカイラインGT-Rが発表されると、スパ24時間レースへの出場準備を開始。1990年の同レースでは、グループN仕様のGT-Rが1-2-3フィニッシュを飾り、ヨーロッパのレース関係者に衝撃をもたらしました。続く1991年はグループA仕様のR32 GT-Rをエントリーし、アンデルス・オロフソン/服部尚貴/デイビッド・ブラバム組がポールトゥフィニッシュの圧倒的強さで総合優勝を果たし、「R32 GT-Rに敵なし」を印象づけました。また、グループNクラスも連覇を遂げています。翌1992年は、グループA仕様車はリタイヤを喫してしまいますが、グループNクラスでは勝利を収め、実に3年連続の優勝を果たしました。

■1992年デイトナ24時間レース総合優勝
グループCカーによるニスモのル・マン挑戦は1990年をもって休止していましたが、1992年の年明けにはル・マン、スパと並び世界三大耐久レースのひとつとされるデイトナ24時間レースに出場しました。アメリカ・フロリダ州で行われたこのレースでは、長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男の日本人トリオが乗るニッサンR91CPは、予選3位からスタートして1周目にはトップを奪う快走を見せました。その後予期せぬトラブルがあり一時後退するものの、夜半過ぎには再び首位に返り咲くとリードを拡大。24時間目には、後続に10周以上もの大差を付けてフィニッシュラインを越え、優勝を果たしました。デイトナのビクトリーレーンには、純日本製のマシンを囲み歓びに沸く日本人ドライバー、日本人メカニックとスタッフ達で溢れ、デイトナ24時間レースの歴史に新たな一頁を付け加えました。なお、この年にR91CPが樹立した762周という周回数記録は、今もって破られていません。また、この年、日本国内では日産が全日本スポーツプロトタイプカー選手権で3年連続のマニュファクチャラーチャンピオンとなり、星野一義がドライバー部門のチャンピオンとなりました。しかし、翌年からのレギュレーション変更を機に、この年をもって全日本スポーツプロトタイプカー選手権は終了となり、栄華を誇ったグループC時代は終焉を迎えました。

■マーチレースとザウルスカップの創設
ニスモは、創設当初から日本のモータースポーツユーザーの裾野拡大を目的のひとつに掲げ、日産車、日産エンジン搭載車でモータースポーツを楽しむユーザーの支援を行ってきました。その一環として、1997年にはK10マーチによるレンタル方式のワンメイクレースを創設。多くのサンデーレーサーにモータースポーツ体験の場を提供しました。このマーチレースは、その後K11、K12へと受け継がれ、本格的ながら手軽なワンメイクレースとして親しまれてきました。また、東京モーターショーで華々しく発表されたレース専用車両「ニッサン・ザウルス」を使ったワンメイクレースが1989年からシリーズ戦で開催され、話題を呼びました。この他にもラリーやダートトライアルなどの競技に出場するドライバーのバックアップなどを展開し、着実にモータースポーツユーザーの層を拡大していきました。

【The Second Decade : 1994年~2003年】
■ツーリングカーレースはグループAからニューツーリングに移行
グループA車両による全日本ツーリングカー選手権が1993年限りで終了。翌年から同選手権は、排気量2リッター自然吸気エンジンを搭載した量産FFセダン車によるスプリントレースへと変貌を遂げました。国内主要メーカー各社がこのレースに関心を寄せ、ニスモは既に英国のBTCCで活躍していたP10プリメーラとB14サニーをそれぞれ2台ずつ投入しました。同シリーズは1日に2レース行うため年間14~18戦がカレンダー登録されていましたが、実力伯仲の混戦レースだったこともあり1994年は星野一義のプリメーラが1勝、1995年は飯田章のサニー、星野プリメーラが各1勝と、日産勢は表彰台には乗るもののなかなか勝利に恵まれませんでした。しかし、新型のP11プリメーラを投入した1996年は、タイトルこそ手が届きませんでしたが計4勝を上げることとなりました。またこの年、F3チャンピオンの本山哲を大抜擢し、JTCCでワークスカーデビューさせて話題となります。本山は翌1997年も非凡な才能を開花させ、このJTCCで活躍。2勝を上げ、最終戦までタイトル争いに残りました。しかし、僅か7ポイント差でタイトルを逃してしまいます。この1997年をもってニスモのJTCCへの挑戦は終了となり、翌1998年を最後にシリーズ自体も消滅することとなりました。

■GTカーレースの興隆とGT-Rの活躍
人気のグループCレースが幕引きとなった後、1993年に全日本GT選手権(JGTC)が始まりました。初年度はいち早く参戦を開始した影山正彦のカルソニックGT-R(R32)がチャンピオンに輝き、ポルシェやフェラーリなど外車勢の出場で賑やかになってきた翌1994年もGT-Rを駆る影山が連覇しました。R33スカイラインGT-Rをデビューさせた1995年は、開幕戦の鈴鹿で影山のGT-Rがデビューウィン。6戦中GT-Rが2勝し影山がドライバー部門の3年連続チャンピオンに輝きました。しかし、翌1996年はFIA GTで活躍するマクラーレンGT1が登場し、GT-Rは苦戦します。F1から国内復帰した鈴木亜久里を起用するなど、タイトル獲得に本腰を入れた1997年も開幕戦こそ鈴木亜久里/エリック・コマスが優勝したものの、その後は勝利がなく、僅差でニスモのタイトル獲得はならず。しかし、空力を始めマシンの性能を徹底的に見直して臨んだ98年は、その努力が開花します。ニスモのペンズオイル・ニスモGT-R(エリック・コマス/影山正美)が2勝し、ホンダNSXとの激しいタイトル争いの末、シリーズチャンピオンを獲得。ドライバー部門の他、チーム部門もニスモが獲るダブルタイトルとなりました。20世紀終盤のJGTCシリーズはメーカー同士の競争が激化し、GT500部門は各チームともワークスレベルの体制を築いて行きます。

■ファンと共に再びル・マンへ
一方、ニスモのル・マン24時間レースに対する情熱は衰えておらず、R33スカイラインGT-RのGTカーを国内のJGTCに投入した1995年には、新しいGT規定に沿ったR33 GT-Rベースの「ニスモGT-R LM」を2台製作し、ル・マンにエントリーすることになりました。この参戦計画に合わせて、ニスモのファン組織「クラブルマン」を新たに発足させ、ファンが応援だけでなくチーム運営にも参加できるという体制を作りました。23号車は星野一義/鈴木利男/影山正彦が、22号車に福山英朗/近藤真彦/粕谷俊二が乗り、23号車は一時総合6位を走行しましたが、ギアボックストラブルでリタイヤ。22号車が総合10位(クラス5位)でフィニッシュしました。また、翌1996年もほぼ同仕様のマシンで再チャレンジしましたが、前年の記録を上回ることはできませんでした。1997年には英国のTWR(トム・ウォーキンショー・レーシング)と共同プロジェクトを組み、ル・マンGT1マシン「ニッサンR390GT1」を3台ル・マンに出場させました。ニスモの新しいブランドアイデンティティを発表した年でもあり、このエントリーは世界のレース業界にインパクトを与えました。しかし、レースではマシンの熟成不足により、23号車1台を残して2台がリタイヤしてしまいます。しかし、この悔しさをバネに大幅な改良を施した1998年仕様のR390 GT1は、4台エントリーした中の32号車(星野一義/鈴木亜久里/影山正彦)が347周を走破し、総合3位に入りました。日本人トリオが初めてル・マンの表彰台に立ったというニュースは、日本中を駆け巡りました。また、この年はその他の3台も全てトップ10以内で完走を遂げています。翌1999年は、念願の総合優勝を懸けてLMPクラスの「ニッサンR391」でル・マンに挑戦しましたが、23号車が予選でクラッシュして決勝の出走を取りやめたため、望みは22号車1台に託されました。しかし、同車は一時総合4位まで順位を上げたものの、電気系トラブルでリタイヤ。クラブルマン会員の夜を徹して日の丸と日産フラッグを振り続ける姿がすっかりル・マンの風物詩として定着し、同年秋に行われたル・マン富士1000kmでは優勝を果たしました。

■ワークス活動の中心はJGTCへ
1999年、R34型スカイラインGT-Rが発売されると、ニスモは国内最高峰のJGTCシリーズにGT500仕様のGT-Rを2台投入。カーナンバー1をつけたペンズオイル・ニスモGT-Rを駆るエリック・コマスがドライバーチャンピオンに輝きました。翌2000年は元F1パイロットの片山右京をニスモチームに招き入れ2台体制で臨み、タイトル獲得はならなかったものの、JGTC初の海外レースであるマレーシア戦(選手権外)で、片山/ミハエル・クルム組のカストロール・ニスモGT-Rが優勝を飾り話題となりました。2001年は、第4戦の富士でGT500はGT-Rが1-2フィニッシュし、GT300でもシルビアが1-2位となり、1メーカーが2クラスの1位・2位を独占するなど、順調にポイントを積んでいったニスモがGT500のチームタイトルも手にしました。翌2002年にはGT-Rの新しい心臓部としてV6型のVQエンジンが導入され、競争力を向上させるもののタイトル獲得はならず、2003年、R34 GT-R最後の年は、開幕戦で23号車がポールポジションを獲得し、第2戦の富士でリチャード・ライアン/影山正美組の22号車がVQエンジン初の優勝を手に入れると、最終的に23号車の本山哲とミハエル・クルムがドライバーチャンピオンを獲得しました。最終戦の鈴鹿では、逆転の末チャンピオンとなったふたりのドライバーは、ファンにもみくちゃにされながら祝福を受けました。

【The Third Decade : 2004年~2013年】
■日産のグローバルモータースポーツ活動を統括
「クラブニスモ」を設立し、応援してくれるファンへの感謝イベント「NISMO FESTIVAL」を始めるなど、ファンとの距離を縮めた二代目社長の安達二郎、日産VQエンジンの設計者だった三代目社長の佐々木健一に続いて、2004年からは日産で長く車両設計畑を歩いた真田裕一が社長となりました。それに先立って、2002年からは日産のグローバルなモータースポーツ活動の統括役としてニスモがその中心の存在となり、代表である社長がその舵取りを行うこととなっていました。この時代、その頂点に位置づけられる活動として白羽の矢が立ったのが、ダカールラリーでした。2003年から南アフリカ日産が開発したニッサン・ピックアップでダカールラリーに出場した日産は、2004年には大幅にマシンを改造し、ダカールラリーで優勝経験のあるアリ・バタネンや元WRCチャンピオンだったコリン・マクレーをドライバーとして迎え、より強力なチームを編成しました。しかし、4台のワークスカーはトラブルに見舞われ、なかなか結果につながりませんでした。2003年当時、ニスモは4年計画で2006年には総合優勝の目標を置いていましたが、2005年に南アフリカ出身のジニール・ドゥビリエが総合4位に入り注目を集めるものの、残る1年での総合優勝は高いハードルと考えられ、この年で日産ワークスによるダカールラリーへの挑戦は中止されました。この決断を下した真田社長率いるニスモは、これ以後、JGTCから発展したSUPER GT選手権に力を注ぐ一方、中国ツーリングカー選手権(CTCC)にニッサン・ティーダで参加するなど、地域に根ざした活動を活性化していきます。世界に通用する若手ドライバーを育成するニッサン・ドライバー・デベロップメント・プログラムを発足させたのは、2006年のことでした。

■ニスモが強さを誇る新生SUPER GT
スカイラインGT-Rの販売終了に伴い、ニスモはZ33型フェアレディZベースのGT500車両でJGTCシリーズに参戦します。その初年度の2004年はデビューイヤーにも関わらずカーナンバー1をつけたザナヴィ・ニスモZ(本山哲/リチャード・ライアン)が前年に続いてシリーズチャンピオンとなり、ニスモの完成度の高いマシン作りを実証。翌2005年はニスモがチームチャンピオンとなり、3年連続チームタイトル獲得という記録を作りました。しかし、ライバル達も黙っているはずはなく、それ以後Zで参戦した2006年と2007年の2年間は惜しくもタイトルを逃してしまいました。長くJGTCとして続いたGT選手権は、2005年からSUPER GTと名称を変え、よりエンターテイメント性を強調し、老若男女が楽しめるシリーズへと変貌を遂げます。そして、2007年末に待望のR35 NISSAN GT-Rが発売されると、2008年からニスモのGT500は再びGT-Rベースとなりました。VK45DEエンジンを搭載した新型GT-Rは破竹の勢いで9戦7勝という好成績を残し、この年の23号車ザナヴィ・ニスモGT-R(本山哲/ブノワ・トレルイエ)がシリーズチャンピオンを獲得しました。その後、ライバルの台頭と新型エンジンへのスイッチなどが重なり、2009年と2010年はタイトルを逃しましたが、2011年と2012年はユーザーチームの「S Road MOLA GT-R」が2年連続でチャンピオンを獲得しました。

■グローバルレベルのカスタマー用競技車両・コンポーネントの開発を開始
2010年に5代目社長として、宮谷正一が就任しました。ニスモは、ダカールラリーから撤退したのち、ニスモの名前は国際モータースポーツシーンから遠ざかっていましたが、2010年からそれまでヨーロッパを中心に行われていたFIA GT選手権がFIA GT1世界選手権として再スタートすることになったことにいち早く着目したニスモは、2008年には、NISSAN GT-Rをベースに早くも新規定のGT1車両を開発。2009年のFIA GT選手権に数戦テスト参加して競争力をチェックし、翌2010年の新シリーズ開幕とともにヨーロッパをベースにするふたつのチームに4台のGT-Rを供給するようになりました。その中の1台が開幕2戦目の英国シルバーストン戦で早くも1勝を記録。ニスモの国際舞台への復帰が華々しく報じられました。さらに、前年のデータによりマシンの適応性が上がった2011年は、マシントラブルの発生が少なく、またドライバー達もアクシデントをうまく避けてチャンピオンシップレースで上位入賞回数が増えます。そして、最終戦のアルゼンチンまでタイトル争いは白黒がつきませんでしたが、ポイントランキングのリードを築いて臨んだミハエル・クルム/ルーカス・ルアー組のGT-R 23号車がシリーズタイトル獲得となりました。ニスモ開発のマシンが国際舞台に復帰したことで、モータースポーツ専用車両やレース専用コンポーネンツ供給の引き合いも増えていきます。2011年からルマンシリーズLMP2クラスのエンジン規定が変更となったことを受け、ニスモはSUPER GTで実績のあるVK45DEエンジンをLMP2仕様に開発して複数のチームに供給。参入1年目で英国のカスタマーチームがチャンピオンを獲得し、欧州日産がチームを編成して臨んだインターコンチネンタルルマンカップシリーズでもシリーズチャンピオンを獲得することに成功しました。以降、VK45DEエンジンのパフォーマンスと耐久性が評価され、2012年から始まったFIA WEC(世界耐久選手権)のLMP2クラスに参戦する多くのチームがこのエンジンを採用し、好成績を収めています。また、新世代のカスタマーレースの統一規格であるFIA GT3仕様の「NISSAN GT-R NISMO GT3」を開発し、2012年から市場導入しました。さっそく初年度にSUPER GTやスーパー耐久、イギリスGT選手権で優勝を果たすと、2013年には欧州のブランパン耐久のプロ・アマクラスでシリーズタイトルを獲得しました。

このようにニスモは、台数が限られたワークスマシンの開発だけでなく、カスタマーが求める高性能のレース仕様車やコンポーネントを開発し、グローバルに供給するビジネスにも取り組んでいます。

このほか、電気自動車(EV)による新世代のレーシングカーのありかたをいち早く提案するコンセプトカー「NISSAN LEAF NISMO RC」を2011年のニューヨーク国際オートショーで発表すると、同年6月のル・マン24時間レースが開催されたフランス・サルテサーキットを皮切りに、世界各地でデモンストレーション走行を行っています。また、2014年のル・マン24時間レースに特別枠「ガレージ56」から参戦する電力駆動レーシングカー「Nissan ZEOD RC」の開発にも取り組んでいます。